長唄の調べに合わせて、着物の袖がふわりと揺れる。凜とした美しさを感じさせるその所作は、足さばき、指先の角度、視線の送り方まで意識が向けられている。
白山市の稽古場で日本舞踊の練習に励むのは、出戸亜砂里(でと・あさり)さん(●)だ。紫派藤間流の名取として「藤間舞穂(ふじま・まいほ)」の名を持つ彼女は、社会福祉法人福寿会・福寿園(白山市)の介護職員として働きながら、週に一度のペースで稽古に参加している。
その成果は、公演などで不定期に披露される。華やかな衣装とかつらをまとい、観客の視線を一身に浴びる舞台は出戸さんにとって「特別」であり、その一瞬のために精進を重ねている。
日本舞踊との出会いは小学校低学年の頃。友人の母親に誘われ、当初は「遊びに行く感覚だった」という。本格的に稽古に励むようになったのは高校時代、師匠が出演する舞台を見て強い衝撃を受けたのがきっかけだった。「単なる振り付けでなく、見る人に『物語』を感じさせるようなすごい踊りだった」と出戸さんは振り返る。
それ以来、自身も「物語を伝えること」を意識して踊るようになった。例えば、蝶を捕まえる仕草をするときには、まるで本物の蝶がそこにいるかのようにして踊る。「登場人物の心情や背景を考え、『お客さんに伝えたい』と想う気持ちがなくてはなりません。難しいですが楽しさも感じ、夢中で練習しました」。この体験が、のちの名取試験合格につながり、現在も稽古場に通うモチベーションとなっている。
そんな出戸さんが短大卒業から一貫して介護の現場に身を置く理由は、「利用者さんと一緒の時間を過ごすのが好きだから」と、とてもシンプルだ。「皆さんが笑ってくれる瞬間が、なによりも嬉しいんです」。この言葉に、彼女の仕事の核心がある。
利用者一人ひとりに丁寧に寄り添い、たとえ「気難しい性格」の利用者がいても、時間をかけて信頼関係を築くことを大切にする。相手のペースを尊重し、焦らず向き合うことで、心は次第に解きほぐされ、自然な笑顔が生まれるという。
その姿勢は、日本舞踊の精神にも通じる。観客に蝶の幻を見せるため指先にまで神経を配るように、利用者の笑顔を引き出すために、出戸さんは常に心を配り、丁寧なコミュニケーションを重ねている。
ある時、施設を利用する女性が「松の緑」という長唄をいつも口ずさんでいることに気がついた。尋ねると、昔、三味線でよく弾いていたという。それを聞いた出戸さんは、同曲を題材にした日本舞踊を施設で披露することにした。
披露会の当日、最前列に座った女性は、初めはじっと舞台を見つめていたが、曲が進むにつれてうつらうつらと舟を漕ぎ、やがて気持ちよさそうに眠りに落ちてしまった。「夢中で見てくれるはず」という予想とは違ったが、穏やかな時間を過ごしてもらえたことに、出戸さんは静かな喜びを感じたという。
また、施設の夏祭りなどで、利用者や同僚の浴衣の着付けができることも、日本舞踊を続けてきた出戸さんならではの特技だ。
日本舞踊の「舞台」と、介護の「現場」。一見まったく異なる二つの世界は、出戸さんの中で結びつき、好循環を生んでいる。日本舞踊の舞台で得られる刺激が日々の仕事に張り合いを与え、介護の現場で触れる温もりが、踊りに表現の深みを与えているのだ。「どちらも、私にとってなくてはなりません」と熱を込める。
最後に今後の目標を尋ねると、母親としての一面がのぞく夢を語ってくれた。「日本舞踊を習っている中学生の娘と、いつか一緒に踊りたい。思春期だからか、今は恥ずかしいみたいですけど、その日が来たら嬉しいですね」
生き方も、働き方も自由です
MY STORY
